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2007年6月29日 (金)

宮澤元総理の逝去

■昭和の生き証人、大物政治家、宮沢喜一元総理が亡くなられた。心からご冥福をお祈りしたい。尚、詳しくは、雪斎殿さくら殿のエントリも参照してもらいたい。

宮沢元首相死去:戦後日本の「軽武装・経済優先」路線作る

 宮沢喜一元首相は、中曽根康弘元首相と並ぶ最後の「戦後政治の生き証人」だった。吉田茂、池田勇人両元首相の直系として、1951年のサンフランシスコ講和条約締結時の随員として参加。自他ともに認める「保守本流」の政治家として活躍し、91年首相に就任した。ただ、政治改革法案の取りまとめに失敗して非自民政権の樹立を許し、自民党一党支配による「55年体制」を終焉(しゅうえん)させるなど、政府手腕には疑問符も付きまとった。

 宮沢氏は池田蔵相(当時)に重用され、53年10月には「池田・ロバートソン」会談に補佐役として参加。戦後日本の「軽武装・経済優先」路線の基調を作り、憲法改正には一貫して慎重な立場を取り続けた。

 43歳の若さで経済企画庁長官として初入閣。以後、外相、官房長官、蔵相など歴代内閣で重要閣僚に就いた。しかし、早くから首相候補と目されながら、たどりつくまでの道のりは遠かった。70年代から80年代中ごろまで、自民党最大派閥のボスだった田中角栄元首相や、同じ派閥(宏池会)の先輩で田中氏の盟友、大平正芳元首相との折り合いが悪かったことが影響した。

 宮沢氏が通産相(当時)として合意に持ち込めなかった日米繊維交渉を、後任の田中氏が解決させたことも2人の亀裂を深くし、田中、大平両政権で閣僚に起用されることは一度もなかった。

 初入閣から首相就任までの年数は、最近では小泉純一郎氏13年、森喜朗氏17年、小渕恵三氏19年。安倍晋三現首相に至ってはわずか1年だが、宮沢氏は29年かかっている。「政争」が苦手で暇さえあれば英字新聞や洋書を読んでいた宮沢氏が、政権を射程に入れ始めたのは、大平氏の死去(80年)と田中氏の病気退場(85年)以後だった。

 しかし、72歳でようやく首相に就任したものの、実態は竹下派(当時)の「かいらい」政権。同派の権力闘争に翻弄(ほんろう)され続け、「自民党下野-細川非自民政権」に道を開く結果となった。自民単独政権に幕を引いた宮沢氏を当時、徳川幕府最後の「15代将軍慶喜」に例える政界関係者もいた。

 こうした中でも、宮沢氏は党内きっての親米派という自負に支えられていた。米国務副次官補だったクリストファー・ラフルアー氏(現駐マレーシア米大使)は女婿でもある。【中川佳昭】

毎日新聞 2007年6月29日 3時00分

■まさに、中曽根元総理とは、対照的とは言え、生きる歴史、そのものだった。戦後、日本の経済成長を支えて、主導してきた手腕は、立派としかいいようがない。

戦後宰相、自他ともに認める知性派であった。

安部総理をはじめ、同じく毎日の記事だが、コメントを引用しておく。

・安倍晋三首相の話:バブル崩壊後の不況という極めて困難な時期に内閣総理大臣の重責を担われ、日本経済の立て直しに尽力された。また、国際平和協力法を成立させ、自衛隊による国連平和維持活動への参加に道を開かれた。優れた指導者の訃報(ふほう)に接し、悲しみの念を禁じえない。

・中曽根康弘元首相の話:戦後の最高の知性を持った政治家であり、共に首相もやった同志として、お互いに尊敬しあい、協力もしてきた。(93年の)自民党分裂などの苦難をなめられ、いろいろと苦労された。あれだけの立派な政治家が日本から消え去ったということは日本の大きな損失だ。(私と憲法について)立場は違っているが、一貫して今の憲法を守るという方向を貫いておられた。それはまた立派なことであった。

・河野洋平衆院議長:(宮沢さんは)サンフランシスコ講和条約、吉田茂全権団のただ一人の生き残りとおっしゃっていた。宮沢さんの政治の原点はそこにあって、終始講和条約を原点に戦後日本はやっていかなければいけないと(考えていた)。最近のように歴史観に欠ける乱暴な政治の振る舞いに対して、非常に強い危惧(きぐ)の念を持っておられた。

■御厨貴先生によれば、「本当に頭が良く、論理で詰める政治家であり、現実政治のドロドロした部分を避けていた」又、「何度もインタビューしたが、気心が知れても質問の答えをストレートに返さない気難しさがあった。酒が入るときつい人物評価をし始め、一緒に飲んだ私にも厳しく詰め寄った」と語られておられる。「首相としては知識があり過ぎて決断に迷うこともあったが、閣僚としては超一級。戦後日本の復興を支えた象徴的な政治家だった」ともコメントされている。

総理としては、バブルの崩壊、再建、スキャンダル、解散、敗北とその手腕を発揮することなく、環境構造の不運に見舞われたが、それでも、PKO法を成立させるなど、国際国家、日本へ、大きく前進させたことは、事実である。

戦後日本の参謀、知性派、知米派、海洋国家(シーパワー)日本の現実を認識し、その上で、軸がぶれることなく、政界、世論のバランスを図るリベラリストでもあった。

次の言葉によって、締めくくる。

『冷静を求める祈り』 ラインホルド・ニーバー 

「神よ、変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気を我々に与えたまえ。変えることができないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることができるものと、変えることが出来ないものとを識別する賢明さを与えたまえ。」

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コメント

こんばんはです。
宮澤氏は好きではありません。
頭が良すぎて、経済界の話を聞かなかったそうですよ。さくらさんのエントリーにもありましたが、「公海なら戦闘行為をできる」というのも、法理を官僚的に斟酌して述べているだけなのですが・・

とはいえ・・ご冥福をお祈りします。

投稿: SAKAKI | 2007年6月29日 (金) 21時08分

SAKAKI様

コメントいつもありがとうございます。

宮澤元総理は、相当に頭が良くて、他人を見下すこともあったみたいですね。また、相当、気難しい性格のようだったそうです。

私も、まだ、回顧録は、読んでいないのでですが、総理というより、それを、近くで支える参謀といった感じでしょうか。

私は、外交史でも、人物評伝が結構、好きなんですが、その人物に、あまり、好き・嫌いという感情は、もちませんね。どちらかというと、おもしろい、おもしろくないという感想でしょうか。

高橋是清と称される、宮澤元総理ですが、少なくとも、昭和の日本政治には、外せない人物ですし、世間の辛口評価もありますが、私自身は、おもしろいのではと思っております。

コメントありがとうございました。

投稿: forrestal | 2007年6月29日 (金) 21時20分

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宮澤喜一元総理の死去に関して、僕が読んでいるブログでもいろんな記事が出ています。 雪斎の随想録: 日米関係の「最良の日々」は去ったのか。 さくらの永田町通信: 保守本流の系譜 forrestalの回顧録: 宮澤元総理の逝去 宮沢元総理の死去と彼の不良債権処理公的資金注入論... [続きを読む]

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