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2007年6月 7日 (木)

インドは中国を凌ぐのだろうか

■なにかとバタバタしていて、なかなか更新できずにいる。読み手の皆様には、本当に申し訳ない。あまり、更新が空くのも、機会を失ってしまいそうなので、メモ代わりでも何か書いておこうと思う。

今日は、帰りにようやく、麻生外相の『とてつもない日本』『自由と繁栄の弧』を購入して帰ってきた。まだ、読んでいないが、また、感想をエントリする。

あと、リンキンパークのサード・アルバムと、デジタリズムも購入した。早速、聴いてみたが、リンキンに関しては、レイジなどを手がけた、ルービンとマイク・シノダのプロデゥ~スで、より、生音らしくなっているが、管理人としては、リンキンは、セカンドアルバムのようなメロディアスな方があっていると思うが・・・。ザックは、どこに・・・。

■今回も、手抜きで申し訳ないが、CFR(アメリカ外交評議会)の On Line debateから、要点を抜き出し、私見を述べる。

■中国の台頭に続き、最後の超大国と呼ばれるインドであるが、両者の関係は、微妙である。極端に簡素化して言えば、どちらも、自主自立的外交姿勢であろう。ただ、マーケットとしての潜在性は、国土、人口からも、極めて高い。

今回は、アメリカの中国研究者と、インドウオッチャーの議論をまず、要約して、最後に私見を述べる。

■中国研究者からは、東アジアの安全保障研究にみならず、テクノロジー分野でも有名なアダム・シーガル氏、インド・ウオッチャーからは、Businessweek 紙のインド部門チーフのマンジート・クリパラニ氏の対談である。(リンクは、こちらWill india Eclipse china?

アダム・シーガル氏は、まず、中国の現状について述べている、それは、経済成長と農業分野での成長、設備投資の増加についてである。が、それに伴う、環境汚染に否定的で、アイデアを出さなければならないと。それから、中国自身が、インドの多民族性、リベラル・デモクラシーに対する、整合的な代替案が策定されていないと述べ、しかし、経済・貿易分野では、中国の共産主義は、終わっている。が、そのことが、中国が世界中に混乱の種を撒いている。また、今日、中国の2国間の貿易関係や、国際制度(機関)での積極的な行動、軍事の近代化などの影響力は、無視できないものになっていると分析している。

インドに関して言えば、まだ、現政権や民主政治システム自体も若く、ポテンシャルはあるものの、まだ、結果は、出していない。さらに、インドよりも、中国の方が、中流と呼ばれる若い世代が、生まれ、エネルギーと機会に溢れ、教育システムもはるかに拡大していると主張する。

又、インドの民主化は、単に宗教やカースト制度のマネージメントだけでなく、自由経済の圧力も受ける試練にあたるだろう。そして、それには、大きな改革が必要である。中国は、未だに、共産党1党支配であるし、これも、長期化するだろうと予測しているが、35万のNGOsの活動が、何か、大きなことを起こすかも知れないと述べ、締めくくっている。

■これに対して、マンジート・クリパラニ氏は、インドの民主政治システムは、まさに今、テストの時である。しかし、リベラル・デモクラシーという価値や、制度は、多言語、多民族、多宗教、多文化といった、イシューを解決できると主張する。それは、インドが過去60年も、敬意を払ってきた偉大な価値であるという歴史があることを、根拠にしている。

インドと中国は、非同一的な両輪と記述される。が、両国は、古い歴史文化を持ち、植民地時代の前は、グローバルに中心的役割を担ってきた。又、知識分野でも、洗練されていた。このような、共通性をもつものの、現代では、その目標が大きく異なる、インドは民主化であり、中国は、権威主義であると述べる。

インドの目指すモデルは、ボトム・アップで、需要を駆り立て、草の根レベルからの変化である。他方、中国のモデルは、エリートの活動による、トップ・ダウン、外資の投資を駆り立て、供給を増やすことである。

中国の経済成長の奇跡は、敬意を表するが、社会的、政治的な数値は、それに値しない。中国が社会的な平等よりも、経済的な平等を目指すに対し、インドは、経済的な平等よりも、社会における平等を目指している。と両者の方向性の違いを強く主張している。

■以上が、簡潔な二人のコメントの要約・意訳であるが、最後に管理人の若干の私見を述べたい。アダム・シーガル氏の見解だが、中国の権威主義には、否定的な部分があるものの、少なからず、楽観論に立脚しているように思える。確かに現在の国際関係で、中国は、無視できないほどの影響力を持っている、しかしながら、それは、同時に国際化されるということであり、国際的なルールやマナーに従わななければいけない制約も生じる。それが、彼の言う、「混乱の種」なのだろうか、インドを批判できるだけ、内政も不確実性が高く、経済成長が停滞すると、様々なインフラ整備も出来ず、国内混乱の蓋然性は、高い。次に、マンジート・クリパラニ氏にコメントについてだが、リベラル・デモクラシーで、どう、国内を束ね、社会的な安定、機会の平等を為すのか、具体性の欠ける内容が多い。確かに、目指す方向は、違うのであろうが、民主政治と経済発展が、必ずしも結びつくわけでもないし、特に、未成熟な民主国家で、貧しい国家はいくらでもある。かつての韓国もそうである。この自由と国内安定、経済成長を両立、持続することは、こと、インドのような国家では、困難である。BRICsと称されるうちに両国であるが、タイトルこそ、挑戦的なものだが、インドか中国かという選択は、グローバル・エコノミーでは、問題ではない。又、国際政治的にも、両国と戦略的な関係を結べばよいのである。もちろん、言うまでもなく、協力協同歩調をとりやすいのは、インドである。

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コメント

中国にしてもインドにしても、都市と農村ではとてつもない格差がある国ですよね。先進国から見るとどちらの国も都市しか見えないのでしょうが、広大な農村部を考えないと判断を誤るような気がします。韓国みたいに国土が狭い国なら、農村も都市の影響を受けやすいので、都市だけ見てても判断を誤ることは少ないのでしょうが。

投稿: Baatarism | 2007年6月 8日 (金) 12時32分

Baatarismさん

コメントありがとうございます。
そうですね、中国もインドも、都市として見られていますね。貧富の差などは、日本の格差なんて、比ではないでしょう。

そういう意味では、複合的に成り立っていますから、複眼的に見なければ、判断を誤りますね。

両国とも、都市から、地方への再分配は、大きな課題ですね。

コメントありがとうございました。

投稿: forrestal | 2007年6月 9日 (土) 21時14分

 倭国及び周辺国(台湾も韓国)は、農地改革で「耕作=所有権」に整理することにより田舎の社会改造=格差の是正を一気に成功させたことが、大きかったと思います。すると各家庭の経済的自立だけでなく、貧しくても持つ財産があるので、マナーや秩序が保たれやすいと思うんですよ。
 中国は私有財産すら混沌ですしインドは役人は腐敗が少なくともあの格差・・
 豊かな国の学者さんの視点ではやや心許ないように思えますけど・・
  
 

投稿: SAKAKI | 2007年6月11日 (月) 17時23分

SAKAKI様

いつもコメントありがとうございます。

そうですね。中国も私有財産を認める傾向にはありそうですが。基本的に封建社会から、近代化にかけては、大きな、農地改革が行われるものです。土地という不動産は、それ自体、まさに、固定的な資産、資本になり得ます。この担保を個人が所有するか否かというのは、個人や社会によって、成熟度は、必要ですが、少なくとも、精神的、経済的な余裕を生むでしょうね。

インドに関しても、ほぼ同じことが言えます。何らかの、代替性の提供は、必要ですね。

ただ、まあ、両国とも、規模が大きいですから、地方は、切捨てとまでは言いませんが、後回しになるのも致し方、ありませんね。

正直いって、このディベート自体は、論点が飛散し、かつ内容の濃いものでもありませんから。


まったく、関係のない話で恐縮ですが、私の尊敬する、五百旗頭 眞 先生の 『日米戦争と戦後日本』講談社学術文庫 1000円ぐらいであったと思います。
こちらも、お勧めです。

コメントありがとうございました。

投稿: forrestal | 2007年6月12日 (火) 16時30分

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