■昭和の生き証人、大物政治家、宮沢喜一元総理が亡くなられた。心からご冥福をお祈りしたい。尚、詳しくは、雪斎殿、さくら殿のエントリも参照してもらいたい。
宮沢元首相死去:戦後日本の「軽武装・経済優先」路線作る
宮沢喜一元首相は、中曽根康弘元首相と並ぶ最後の「戦後政治の生き証人」だった。吉田茂、池田勇人両元首相の直系として、1951年のサンフランシスコ講和条約締結時の随員として参加。自他ともに認める「保守本流」の政治家として活躍し、91年首相に就任した。ただ、政治改革法案の取りまとめに失敗して非自民政権の樹立を許し、自民党一党支配による「55年体制」を終焉(しゅうえん)させるなど、政府手腕には疑問符も付きまとった。
宮沢氏は池田蔵相(当時)に重用され、53年10月には「池田・ロバートソン」会談に補佐役として参加。戦後日本の「軽武装・経済優先」路線の基調を作り、憲法改正には一貫して慎重な立場を取り続けた。
43歳の若さで経済企画庁長官として初入閣。以後、外相、官房長官、蔵相など歴代内閣で重要閣僚に就いた。しかし、早くから首相候補と目されながら、たどりつくまでの道のりは遠かった。70年代から80年代中ごろまで、自民党最大派閥のボスだった田中角栄元首相や、同じ派閥(宏池会)の先輩で田中氏の盟友、大平正芳元首相との折り合いが悪かったことが影響した。
宮沢氏が通産相(当時)として合意に持ち込めなかった日米繊維交渉を、後任の田中氏が解決させたことも2人の亀裂を深くし、田中、大平両政権で閣僚に起用されることは一度もなかった。
初入閣から首相就任までの年数は、最近では小泉純一郎氏13年、森喜朗氏17年、小渕恵三氏19年。安倍晋三現首相に至ってはわずか1年だが、宮沢氏は29年かかっている。「政争」が苦手で暇さえあれば英字新聞や洋書を読んでいた宮沢氏が、政権を射程に入れ始めたのは、大平氏の死去(80年)と田中氏の病気退場(85年)以後だった。
しかし、72歳でようやく首相に就任したものの、実態は竹下派(当時)の「かいらい」政権。同派の権力闘争に翻弄(ほんろう)され続け、「自民党下野-細川非自民政権」に道を開く結果となった。自民単独政権に幕を引いた宮沢氏を当時、徳川幕府最後の「15代将軍慶喜」に例える政界関係者もいた。
こうした中でも、宮沢氏は党内きっての親米派という自負に支えられていた。米国務副次官補だったクリストファー・ラフルアー氏(現駐マレーシア米大使)は女婿でもある。【中川佳昭】
毎日新聞 2007年6月29日 3時00分
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