« イラク研究グループの報告 | トップページ | 中国の政治体制の動向 »

2006年12月10日 (日)

メディア論について

正直、忙しい。この週末もぐったりだったが、数冊か、メディア(媒介)論に関する積本を処理する。キットラーとか、ボルツとか、佐藤卓巳氏などである。

学生時代は、一時、宮台氏にはまって、ルーマン・システム論なんかを乱読したが、今は距離を置いている。(理由はパースペクティブを広げるためである)

そこで、今回は、軽く、こうしてブログしている自分を観察してみる。(サード・オーダー)

まあ、要するに本を読んだ感想を少し述べます。前置きが長くなってすいません。

■今でも、相変らず重要な書類や契約書のサインは手書きでやっているが、それ以外は、こうやってブログを書いている時のようにPCなどのタイピングである。

■グラムシは、かつて「技術の効果として、書かれる」といったが、このテクノロジー形而上学は、例えば、今これを書いているキーボードの配列が、相変らず「QWERTY」であることにも現れている様に思われる。というのも、この「QWERTY」というキー配列は、P・クルーグマン氏が話す事に拠れば、人間工学によって決定されているというよりも、その歴史的経路に依存しているのである。すなわち、タイプライターの機械的な作動機構上の都合から決定されたキー配列が電子的になり、機械的な制約から自由になったというのに、人間たちはタイプライターに従属して働く事に余りに慣れきっていたため、キー配列はそのままとなったのである。 (つまり機能性というより、慣性からくる従属性)

■マクルーハン、フルッサーを経て、キットラーになると、(グーテンベルグの銀河系の成立)・・・すなわち活字メディアの普及以降において、書くという事を決定的に変えたのは、タイプライターのようである。確かに、手書きする時と異なり、誰が書いても同じで、固有性がない。文字の身体性というのは、印刷所だけでなく、生産の現場でも消えた。文字が中性的になったのだ。これによって、女性は手に針を、男性は手にペンを、というような事はなくなったとキットラーは述べる。すなわち、男たちが音声中心主義的な妄想に駆られている間に、女性達は女性タイピストという形で、従来のテクスト生産体制を転覆に掛かったということだろう。B・アンダーソンは、出版資本主義が、想像の共同体としての国民国家を形成したというが、そうするとこの女性タイピストたちの登場は、その内側の、テクニカルな角度からの権力ネットワークへのアクセスということだろう。

■また、キットラーによると、タイプライターによって、書くという行為における目と手の協働が、ある程度解除されてしまった。手書きなら、意識的に読み返しながら書くということが普通為されるが、このタイピングという行為に至っては、今まさにそのようにしている節がある訳だが、必ずしも意識的に読みながら書くという感じではない。
つまり、ほとんど思考速度でタイプしたものが、無意識ともいえる文字で飛び出す。(この意味でのタイピングの延長上には、ある種のGUI上の操作、コピー&ペーストや定型文入力といった事も含まれるだろう)
読むことなしに(思考速度で)書く。こういう傾向を助長しているともいえる。今、このブログという形式で書く事が大流行しているのも、こうした「読む事なしに書く」という事の延長上にある現象なのかもしれない。

■重要な書類やサインを手書きでするというのも、一方向関数を応用した電子署名ソフトのような技術が、そのうち殆ど代替してしまう。日本の携帯電話は、ずっと前からRSA暗号などを実装しているが、それはいずれ携帯が本当にペンの代わりにサインするのを見越しての事だろう。でも、「オサイフケータイ」とかで家や車を買う訳には行かないだろう。ケータイがペンになるには、ペンで書くときのような身体性を担保するようなバイオメトリクス技術が追加的に必要である。

■このようなテクノロジーのもつ、強制性や暴力性をキットラーは、功罪含めて述べるわけだが、この身体性の無確保・無自覚に危惧を覚え、対処方法を提示するのが、ボルツである。ボルツのその方法とは、サード・オーダーだそうだ。つまり、観察の観察(セカンド・オーダー)の観察(距離化)である。もっと簡単に言えば、今、私がPCをしている。PCをするとは、どういうことかを観察する(ここまでがセカンド・オーダー:PCをするとは、相互にどういうメカニズムかなど)。これをファースト・オーダーにして、PCをしている自分を観察することを意識的に観察する。(意識的な距離化)である。

しかしながら、これは、論理上、不可能である。つまり観察の観察の観察の・・・となるわけである。

■といっても、現状、管理人にもこれ以上の処方箋がみつからない。身体的・固有的な特性を出そうとするなら、イマジナリーな領域(意識的な距離化)以外にはないだろう。

何故、こんなゴタゴタしたことが必要か・・・それは、人間とテクノロジーの関係である。

まさに’メディア(媒介)’を通じて、相互に認識・存在可能たらしめる、主体と客体の問題だからである。

まあ、主体や主観(Subject)というのは、常に従属してきたものであるが・・・。

|

« イラク研究グループの報告 | トップページ | 中国の政治体制の動向 »

「評論・感想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/179808/4497625

この記事へのトラックバック一覧です: メディア論について:

« イラク研究グループの報告 | トップページ | 中国の政治体制の動向 »